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勉強の哲学

勉強したい。それは常日頃思っていることで、もちろん勉強について哲学したこともなければ、なぜ勉強したいのだろう、ということもよく考えたことはなかった。大体いつも簡単に結論を探して終わる。承認欲求=ほめられたいのだとか、マウンティングして安心したいのだとか、のめりこむことで普段の嫌なことから目を遠ざけて逃げられるのだとか。この本に書いてあったのはつまり、そういう結論付けを安易に出すな、ということだと思う。

解釈についてはいろいろあるだろう、でも一般的な正解について私が今議論する必要はないと思う。意見を提示して意見を求める、その先に議論をする、でも求められるところがあるのだとすれば議論は結論を希求するのであって、それはつまり勉強の限界、終わりに迫る一つの方法でもあり、学者でも学会人でもない私はあえてそれに肉薄する必要がないんだということ。勉強とは、個人個人が、個人の目的をもって、あえて言えば個人だけのために、無限の考察と比較と新たな探求によって世界(本で言うところの環境と他者と自分)を拡張する、展開する、それを続けることだと思う。私は、今そこに価値をおいているということなんだけど。パフォーマンスいいし。

でも議論とかアウトプットにのめりこんだ結果享楽の追求?で妥協?したキモい人間がそこから出られず一生じたばたする様を思うと心が痛む。私は?という話。「ただのバカに見える人が来るべきバカでないとどうして言える」っていうけどただのバカに見えていない=正直全然キモいままなんだけど、という指摘を聞く人はいる?そしてそれは意味はある?この本公害まきちらしてない?大丈夫?もうちょい他者でなく他人のこと考えた方がよくない??????

ところで欲望年表というのは面白かった、事実=軸と漫然としたアイデアを紐づけて考えると大学のころなぜあの作品を?というのにはっきり結論がでて恥ずかしかった。ついでに自分の興味関心の根本もつかめた(気がする、じゃなくて割とマジで)のでその方向にもっと意図的に体ごと向いてみようと思う。ちょっと個人的過ぎてここには書けないけど。あとヤムチャトークがオタクレベル低い?みたいな言い訳もちょっとほっこりしたけど一番思ったのは作者、ちゃんと髪切ってほしい。多分キモいのは勉強のせいじゃない。