読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キルケゴールの我識(3)

昨日の日記から「キルケゴールの我識」という書き方での「我識」の捉え方が伝わったと思いますが、もしすっきりしなかったという読者(この日記は架空の読者を想定して書いているものだから)の為に少しばかり解説してみようと思う。

仏教に親しんでいる者の場合、我識と言うと阿頼耶識(蔵識)のことかなと思うかも知れない。しかし自在に思想を語る為には、そのような概念への囚われは無くしなくてはならない。勿論仏教の場合でも阿頼耶識即我識と捉えるなら悟り(内心の大我開顕)は閉ざされる。

キルケゴールは実存を問題にする思想家だから、存在論的我識ではなく実践的我識を当て嵌める方が簡便に意を伝えられるのだ。

こういう概念操作も真理の内包であって、キルケゴールの我識が真理認識の道を外れているということはできないと考えられるのだ。このようにキルケゴールが説く「自己実現の三つ段階」の中に、宗教が説く自己超克と彼岸への道に相応するものが読み取れるだろうか。もし読み取れたなら、キルケゴールの著述は貴方という読者の中で成功したことになる。

そしてその成功は、日記“ニーチェの「人間が神を作った」”から「だから作者たる人間に神を返してもらう」を経由して「神は人間に於いて実践され、人間は超人に至ることができる」という意味に通じる言葉が、その読者に対して成功したのと同じように、実存者としての我識を開花させることに成功したということだ。